発想法 創造性開発のために
この書籍に書かれていることは全く色あせていない、今yo3.iconはとても興奮しているyo3.icon*4なぜなら現在の大学批判であり、スタートアップ批判と読めるからだ。(前者は大学からでない書斎化学、後者はオフィス、または渋谷から出ずに開発する実験化学だ!)
p6
その背景のもっとも重要なものは、「野外科学」の必要性からきたのであった。化学というものの分けかたはいろいろできると思うが、一つの分けかたとして、化学は次の三つに大別することが重要である。それは書斎化学、実験化学、および野外化学という言葉で呼ぶのがふさわしいであろう。そして、私の意味する発想法は、この野外化学の方法とひじょうに関係が深いのである。 歴史的にまず最初に古くから発達したのは書斎化学であった。昔は、学問といえばこの書斎化学であった。そのような学問が人類におこったのは、われわれの祖先たちが部族的、田園的な文化の段階を乗りこえて、都市文明ともいうべき文化の段階に到達してからなのである。この書斎化学の特徴は、次の二つの点にあると思う。 一つは過去の情報のストックにおおいに依存していることである。これを別の言葉でいうと、古典に依存している。あるいはもうすこし広くいうと、文献に依存していることである。すべての学問が文献に依存しているには違いないが、とくに書斎化学で依存する文献は、一度だれか先人の頭脳のフィルターをとおして、体系づけられた形の情報になっている文献である。 たとえば歴史学者は古文書を資料に使うが、これはここでいう書斎化学における文献ないしは古典とはちがうのでる。彼が日本の近世地方研究の学者だったならば、日本の町や田舎に行って、そこでいろいろな古文書を見いだし、庶民資料なども使う。その古文書に書かれているのものは、文献にちがいない。しかしその特徴は、なんら学問的体系をつくろうという意図でなしに書かれた文献であり、それらがたくさん存在する。たとえば借金の証文とか、お上に奉る訴状などがそれである。そのような資料を探し求めて研究するのは、むしろ後でのべる野外化学に順ずる性格を持つのである。
これに反して、書斎化学に関連づけてここにいう文献とは、孔子がどういったとか、聖書の言葉とか、いろいろな形で体系づけようとした先学者の文献という意味である。したがって、狭くいえばいわゆる古典といわれるものになる。これに大きく依存しているのが書斎化学の一つの特質である。その意味では、西暦紀元前数世紀のギリシアの学問、おなじころから始まった儒学書、すなわち中国の古典といわれるもの、イラン(ペルシャ)文明の遺産、インドの古典など、すべて過去の文明圏といわれるものが、たくさんこういうものをつくりだしてきた。もちろんその後にも、それらを発展させ、あるいは注釈した数々の文献がある。それらに依存して仕事をするのが書斎化学である。
書斎化学のもう一つの大きな特徴は、頭の中の推論に重きをおいたことである。こうすればこうなるはずであるという論理的なつながり、推論過程を重視することである。一方でこれは文献に依存しながら、他方では推論過程を重要視する。文献と推論を重要視する。これが書斎化学の大きな特徴である。
なぜ特徴かといえば、ほかの実験科学、野外化学などでは、現実界の経験と観察が重要な基盤をなすのに対して、書斎化学ではそれらがなくても一応ことがすんだということである。文献は自分の頭の中の思考でないとしても、しょせんは先人の頭の中からの産物である。そこで書斎化学では、現実界を観察しないで、一応学問が成立していた。つまり、ものに触れなくてもいいのである。孔子が下町に実験室を建てたとか、中世の神学者が学問をするために、野外観察に歩きまわったということはあまり聞いたことがない。
ひじょうに古い伝統をもったこのような書斎化学に対して、実験化学がおこってきたのはきわめて新しい。幾人かのすぐれた先駆者たちの胎動を省いていえば、実験化学は西欧社会の近代化の始まりとともにおこってきたものである。その実験化学は、実際に現実界のものに触れて、観察したことを重要な拠りどころにする。すなわち経験化学的な面をもっている。このような実験科学は書斎化学の人びとからみれば、はじめのうちは学問というには値しないかのように蔑まれさえしたのである。ものを観察するなどということは下品なことだった。また、子どもだましのような単純なことと思われた。それは形而下的な問題であり、それを実験したりして喜んでいるのは、子どもくさい話であるという雰囲気であった。あるいは、いかがわしい錬金術師くずれとも思われただろう。ヨーロッパ、たとえば英国のどこかの古い大学にでもゆくと、学問は書斎化学が本物だというムードがいまでもすこしはただよっている世界があると思う。 実験科学の世界は、このようにばかにされながらスタートを切ったとしても、たくましく成長していった。そのあげく、今日では、化学といえばすなわち実験科学、という印象すら社会に与えている。たいへんな社会的信用を得るにいたった。
実験化学が信用を得たゆえんは、なんといっても「ほんとうかどうか」を試すという、一種の実践的性格をもっていることだと思う。書斎化学のいうことはほんとうかどうか、決め手がない。しかし実験科学には決め手がある。試すのだ。文字どおり実験という言葉が、それを意味している。また、働く場所からいっても、書斎化学が主として書斎のなかで行われるのに対して、実験化学の典型的な仕事場は、やはり実験室という相違がある。
おれに対して書斎化学の書斎には万巻の書が積まれ、それはこの化学が過去の文献的情報に大きく依存していることを表しているのでる。こうして、実験科学が開拓した大きな成果は、ある一つの仮説がほんとうかどうかを実験してたしかめる点にある。一言でいうなら、実験科学の方法の核心は、仮説検証的なのである。じっさいには実験室内でも、仮説検証的であるばかりでなく、その仮説を発送せしめるための観察を目的とした活動が行われることもある。しかしながら、そのような活動は、じつは次にのべる野外化学的方法が、たまたま実験室に侵入しているのにすぎない。典型的な意味での実験科学は、やはり、実際にそうであるかどうか、実験装置をつくって仮説の指し示すところを観察し、その結果によって仮説を検証するところにある。 このように、確かめるという力を持っていることが、当然、実験化学とその応用としての技術の結びつきをもたらしてくる。そして、この技術の進展が、今日の世界の運命を左右していることは、改めて説くまでもなかろう。こう見てくると、今日世間で「科学技術」と総称した場合に、主として実験科学とその応用としての技術を結びつけて考えているのも、ある点までは、うなずける話だといわねばならない。
さて問題は野外化学である。野外化学には、実験科学と重要な共通点がある。それは実際の観察と経験を重要視するということである。しかしながら、まさにこの共通性のために、両者の方法の違いがほとんど認識されていない。まず、外形的な点から問題にしてみよう。野外化学においては、観察し経験する場所が実験科学とはぜんぜんちがう。つなりそれは実験室ではなく、野外だということである。野外化学という用語の適切さは、一つにはこの点に存するのである。けれども、私はここで、場所が部屋の内か外かという単純な表面的なことだけを問題にしているのではない。この働き場に象徴された、ある重要ん方法の差こそ問題なのだ。したがって、ひとしく現実界を観察するといっても、実験室と野外ではどうちがうかということが、まず第一に問題になってくる。ここには大変重要なちがいがある。
仮に観察する対象を、広い意味で「自然」と呼ぶとすれば、実験室的な自然と野外的な自然とは、どこがちがうのか。野外的自然は、いいかえればありのままの自然である。これに対して実験室的自然は、ありのままの自然のなかから、操作を加えて人工的自然を作ることである。ありのままの自然と人工的自然のちがいがそこにある。しかしこれは逆にいうと、実験科学者たちが、次のように表現するのとおなじことである。
実験科学者たちの考え方では、実験室のなかの自然が「純粋な自然」だという表現をする。その流儀をうけいれるなら、野外的自然は、「不純な自然」ということになる。純粋な自然か不純な自然かという表現もできるし、人工的自然か、ありのままの自然かともいえる。つまり実験室で対象になる自然は、自然のごく少数の選ばれた要素を純粋に取り出そうということである。そこに実験化学の方法の分析的性格がある。ところが、野外的自然が扱うのはありのままの自然であり、そこではほとんど数えきれないぐらいの複雑な自然の諸要素がからみあっている。
発言内容のコンテキスト、ひとまとめの構造をもった部分、ひとまとまりの構造を持った意味内容のエッセンスを一行見出しに書く。
https://gyazo.com/75f017dbcc0d754094deb99923c93ca5
カードになると短くまとめようとする、わけたカードにしようとする、「見るもの」
slackだと長く文章を書いてしまう、「読むもの」 意味のエッセンスを作る場合に、ひじょうに大切なことがある。それは、過度に抽象化しすぎないことである。むしろ、できるだけ柔らかい言葉で、発言者のいわんとして要点のエッセンスを書き留めるのがよいのである。酒を飲むことについて、それを好意的に論じた発言があったとしよう。それを一行見出しに圧縮するのに、「飲酒効果の是認的発言」などと書くよりも、「酒は飲むべし」と書いた方がいい
音声入力ができるようになると、言った言葉のまま記録されることが増えそう 計画の話
このように、手順の計画を発見することは、平凡な意味でなら人間の想像力の逞しさによってある程度可能ではある。しかしもっと本格的な意味では、それは未解決の問題といわねばならない。今まではアメリカ流の考えで、なんでも計画は固定した路線を初めに決めておいてやるものだという考え方をしている人がおおいけれども、はたしてそれが賢明かどうか。むしろ進捗の段階に応じて、常に梶を取りながらやってゆこうというほうが、かえってよいのである。〜行動する我々が今までの情報処理の結果、「いっそう賢くなった」という、主体の側の変化もまた考慮の中にくわえなければ、解釈できないことなのである。この主体的変化を無視してはならない。
いろんなものに当てはまる話ですが、「主体側の変化」を加味する必要があるというのが面白かったです
高揚感の話
この快感の最も重要な点は、「自分は事実の声にすなおに耳を傾け、なにかしら、嫌味のない自然な大道を歩いた」と実感できる感情にある。
さらに〜、手を動かして労働しているようにみえるけれども精神的な苦痛とか重圧はかなり減ってしまう。反面において、次々と新しくおこる空間配置の関係認知のために、喜びが苦痛をおしかくしていく。そして図解が完成したとき、じつにスカッとした爽やかな快感が最高と湯に達する。「混沌は遠く去った」という感じである。また、「何ものかを創りだした」という充実も伴う。
京都のスタバで感じた感覚に近いのかなと思いました。